千代田化工建設株式会社 永瀬 睦 ・ 久保田 幸治
宇宙では、微小重力や宇宙放射線等の地上では得られない環境に生物が曝されることから、宇宙開発の黎明期にはこれら環境への生物応答に関わる研究に始まり、その後にはこれら環境を積極的に活用した生命現象に関わる研究や生物プロセスを活用する工学研究が行われるようになってきました。 当社は、主にこの宇宙でのライフサイエンス実験で活用される実験装置・器具やその運用技術の開発に取り組んできましたが、特に近年の宇宙実験に関わる各種設備の充実を目の当たりにし、ますます今後の大きな発展が期待できると考えています。本稿では、このライフサイエンス分野への取り組みについて、基礎研究から商用利用に至る可能性と期待をご紹介します。
世界最初の微小重力環境におけるライフサイエンス実験は、旧ソビエト連邦が1960年に実施したイヌの軌道上飛行でした。翌年の1961年には、アメリカ合衆国がチンパンジーによる実験に成功し、その後は宇宙飛行士によりミッションが次々と進められました。初期のライフサイエンス実験は、生物、特に高等生物の宇宙環境への適応の可能性を調べることに実験の主眼が置かれていました。
日本が主導的に参画する宇宙実験は、1992年の毛利宇宙飛行士によるスペースシャトル実験(第一次材料実験・ふわっと’92)に始まり、動物・植物細胞や魚類を用いて生物の宇宙環境応答を調べる実験や、酵素結晶成長や電気泳動等の無重力を積極的に活用したプロセス開発実験が行われました。
その後、スペースシャトルより長期間の宇宙実験が可能な環境として国際宇宙ステーションの建設が進み、2008年には日本の船内実験室モジュール「きぼう」が打上げ、整備されたことで更に高度化された実験機器を駆使することが可能になり、多くのライフサイエンス実験が実施されています1,2)。 国際宇宙ステーションでは、これまでに三千以上の実験が行われてきました。これらの研究テーマは、物理学、気象学、生物学、そして医学など多岐にわたっています。国際宇宙ステーションでの実験の開始当初は、民間への還元が十分でないとの評価がなされていましたが、軌道上ミッションの多くの時間を実験に充てることができるようになってからは、科学的にも産業面でも有意義な実験データを蓄積されてきています。NASAの宇宙飛行士で生物学者のケイト·ルービンズは国際宇宙ステーションについて、「世界トップクラスの大学全体を宇宙ステーションのサイズに縮小したようなものです」とコメントしています3)。
以上のような軌道上実験の中でも、生物学・生化学等のライフサイエンス実験は最も多く、多数の有意義な研究成果が得られています(図1)。また日本のJAXAによるこの分野での実験数は最も多く、本分野への我が国の精力的な取り組みと、ハード・ソフト両面の充実した実験環境の整備が窺えます。
一般的に宇宙実験では、軌道上と地上との事象を比較し、その差異の原因を探ることにより新しい知見を得ることを目的としています。特に生物は、地上の重力下で存在することを前提とした構造およびその機能を持っていることから、軌道上の微小重力環境を活用することで、地上では見出だすことができない新しい発見が得られる可能性があります。
日本の「きぼう」モジュールが備える重要な特徴として、微小重力環境と加重環境(回転する遠心力に付加)に並行して生物試料を曝して生育・成長実験を行うことが可能な「細胞培養装置(CBEF)」を備えており、精度高く生物への重力影響を比較評価することが可能であることが挙げられます4)。 CBEFはユニット交換式の培養用恒温槽となっており、植物成育ユニット(PEU)や細胞培養ユニット(CEU)などを組み合わせることにより、様々な培養実験を行うことができます。これまでにシロイヌナズナ等の植物、線虫、動物培養細胞などの試料を用いた実験に活用されました。
さらに、最近のライフサイエンス分野研究の進展が生命現象を遺伝子レベル・分子レベルで捉えることを可能とする高度な分析技術・装置に支えられていることは周知のとおりですが、「きぼう」においても宇宙環境で発現する生命現象を精緻に捉える高度な分析装置の整備が進められています。 図-2は、最近に搭載化された分析装置の例として共焦点観察機能を備えた蛍光顕微鏡システム「COSMIC」の活用事例を示します5)。 COSMICは、地上の先端ライフサイエンス研究でも活用されるライカマイクロシステムズ社性倒立顕微鏡システムと横河電機株式会社開発のニポウディスク方式共焦点スキャナを搭載し、軌道上の微小重力環境で発現する精緻な生命現象の観察を可能とするものです。 宇宙用装置の開発では、宇宙の微小重力環境で稼働し且つ宇宙環境に耐える信頼性や安全性を実現するために、5年以上の長期の開発期間をかけて専用機器として開発されることが一般的です。しかしCOSMICの機器開発においては、進展著しいライフサイエンス領域の民生先進技術を、速やかに宇宙ステーションに実装するため、各社の民生製品が備える優れた信頼性・堅牢性性能を評価・採用し、最小限の補強・改修等を行うことで、短期間でその高度な機能・性能をそのまま「きぼう」上で発揮させることに成功しています。COSMICは、今後も様々な先進ライフサイエンス実験への活用が予定されています。
ここまでご紹介した実験機器以外にも、小動物飼育装置や冷凍・冷蔵庫等のライフサイエンス実験にとって有用な多くの機器・設備が「きぼう」に整備されており、さらにこれら機器・設備を地上から遠隔操作する運用の知見も蓄積されてきており、我が国は国際的にも極めて優れた宇宙でのライフサイエンス研究環境と知見を獲得している、と言えると考えます。
軌道上の微小重力環境が最も活かされる実験の一つである植物の生長に重力が及ぼす影響を評価する研究は、前述のCBEFとPEUを用いて複数の実験が行われており、更に最近の軌道上実験では地上の植物工場に応用可能な技術開発も行われています6)。
植物の外骨格は主にセルロース、ヘミセルロースおよびペクチンという多糖類から構成されており、植物の生長に関してはセルロース合成が支配的となっています。前述の多糖類は植物細胞の細胞壁を構築しており、パルプやカーボンナノファイバーなどの基本成分の原材料はセルロースを主成分としています。セルロースは地球上で最も豊富に存在する高分子化合物ですが、その生合成のしくみは未だに謎に包まれています。セルロース合成酵素は最初に酢酸菌で発見されましたが、高等植物でのセルロース合成機構は永らく不明でした。最近になって、セルロース合成装置の構造解析についての研究結果が発表されましたが、セルロース繊維の配向性などについて、その詳細な分子機構の解明は未解決の課題です。軌道上の微小重力環境であれば、セルロースのより精緻な解析が可能となり、未解明の合成様式を明らかにすることができるかもしれません。
ここまで、宇宙ライフサイエンス実験環境をご紹介しましたが、実験環境が成熟するにつれて、民間・商用事業者のライフサイエンス実験への参画が進んできています。NASAのISSナショナルラボの2021年度報告によると、2021年度に打ち上げられた81件のペイロードのうち70%以上は商用パートナが参画するもので、その多くライフサイエンス実験に関わるものです7)。またその研究領域は、重要な創薬や機能性物質の探索に関わるものや、バイオ生産プロセスに関わるものが含まれ、宇宙環境を利用したライフサイエンス分野の商用研究・開発は、近い将来にこれまでの知見を活用する成熟期・収穫期に進んでいく、と予想されます。
また本年2月、NASAは国際宇宙ステーションの運用を2030年に終了することを発表していますが、一方でこれに代わる活動として、2021年12月にNASAは低軌道での商用宇宙ステーション開発事業者として、民間3グループ(Blue Origin, Nanoracks, Northrop Grumman)との開発契約を締結することを発表しています8)。 即ち、今後の宇宙環境を利用した実験等の活動は、政府宇宙機関主導から、民間主導に代わっていくことが既定路線となっています。この民間・商用化の流れの背景には、ロケットの輸送コスト削減によって宇宙の利用が従来より極めて身近になったことに加えて、これまでの国際宇宙ステーションでの活動知見により宇宙利用の価値と可能性が十分に確認され実証されてきたことにあると考えます。 先に述べたこれら民間事業者は、商用宇宙ステーションの重要なアプリケーション・用途として、宇宙旅行、エンターテイメントに加え、宇宙での科学研究や生産活動を掲げています。 日本はこれまでに優れた宇宙でのライフサイエンス実験技術・ノウハウを開発し蓄積をしてきましたが、今後これらが有効に商用宇宙ステーションにも継承され、地上の生活を豊かにする様々な成果が創出されてくることが大いに期待されます。
更に、宇宙ステーション事業者やロケット輸送事業者の多くは、地球近傍の低軌道から月・火星等への有人探査や進出・拡大も視野に入れて活動を進めています。 これは人類という生命がさらに広く、長期にわたって宇宙という空間で活動していくことを示しており、この活動を支える上でも、宇宙でのライフサイエンス実験・研究は今後さらに重要となると予想され、またこれがもたらすだろう大いなる成果に強く期待したいと思います。
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